エッセイ

文芸時評 ・ 肉体に支えられるもの


 私の両足の親指の爪は真っ黒に変色している。
 フル・マラソンなどの長距離走をすると、靴の中でくり返される衝 撃のために爪の下で内出血が起こるためである。見た目は異様 であるが、痛みはなく歩行に支障を来すこともない。

 評論「詩論まで時速一00キロ」で寺山修司は「詩人は言葉を書 物の中に仕込んで」おくだけであり、詩は、読者によって始めて詩 になるのだという、受け入れやすい考えを述べている。
 このなかで寺山は「走りながら読む詩」はあるかという疑問を投 げかけている。
 ここでの「走りながら」というのは、読者は受動的に詩を与えられ るのではなく、能動的に、いわば自らの生活の中に組み込んだか たちで詩を読まなければならないと言うことをイメージ的に表して いるものと考えられる。そして「詩は自立できない」のであり、そん な詩が自立するのは「言葉のなかに於いてではなく、詩人が終わ ったところから読者が始めるという架橋体験の中に於いてであろ う」と言う。
 寺山は続いて「走りながら書く詩」というものについても言及して いるが、これらは「走りながら」と言っても、比喩的に用いられてい るわけだ。
 それでは、文字どおり実際の肉体を走り続けさせてから書く詩と いうものがあるだろうか。

 絵画の世界では、柱に取りつけた強力なゴムバンドで自分の体 の自由を奪い、それに抗いながら体を動かし、腕を動かして絵を 描く画家がいる(NHK新日曜美術館より)。
 このような作画方法で描きあげることにどんな意図があるのか、 また描きあげられた作品にどんな意味があるのか、私にはなかな かに理解が困難である。
 しかし面白いので、詩を書くときに同じような試みが可能だろうか と考えてみる。
 たとえば睡眠薬を服用して眠気と戦いながら詩を書く。いや、こ れは一昔前のドラッグをやりながら詩を書いたのと同じで、頭の働 きそのものを制御するという、非常に短絡的な発想だ。

 そうではなく、肉体そのものを追い込んだときの脳細胞の状態で 詩を書く、と言うのはどうであろうか。
 当然のことだが、精神もまた肉体の上に成り立っている。たとえ ば、フル・マラソンのような長距離を走り続けて肉体の機能が極限 まで使われた状態では、筋肉に蓄積された乳酸が手足を重くし、 心にまで押し寄せてきて感情の動きまでも制限する。肉体が疲弊 すれば、精神状態もまたぎりぎりの状態になるのだ。
 これも結局は酸素不足になった脳細胞にエンドルフィンが作用し ているだけだと、解釈してしまうことも可能ではある。
 しかし、それだけではあるまい。ゆとりのある状態のときには纏 っていた余分なものは捨てられ、それでも切り捨てられない本能 的なものだけが最後に残ってくる。
 そうした状態のときになって、その肉体が支配している精神には じめて見えてくるものがあるはずだ。そこで書かれるべきものが形 をあらわしてくることはあるはずだ。

 そんな風に、どこまでも走ることによってはじめて書くことができ る詩について、夢想している。
                             「詩と思想」2005年 11月号





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