エッセイ
夢のような作品というものがある。
そのような作品は、物語に現実的ではないような飛躍があった
り、描写の輪郭が曖昧で事象がはっきりとは捉えにくかったりす
る。
中には実際に夢をモチーフにして書かれた作品もあるだろう。
夏目漱石の「夢十夜」は、「こんな夢を見た。」という一行で始ま
る十の掌編集である。言葉どおりに、夢をモチーフにしたと思われ
るような話で、実際に見た夢をそのまま書いたのではないかと思
われるほどの自然さだ。
このような夢の面白さは、夢を見た当人ですら、何故こんな展開
になったのだろうと訝しくなるようなところにある。
そんな夢に惹かれ、夢をモチーフとした作品を書いてみたいと思
う人は少なくないだろう。
一色真理は自分のホームページで夢の収集を行っており、「偽
夢物語」という詩集まで出版している。
もちろん「偽夢」と断っているように、夢がそのままで作品になる
わけはない。夢をきっかけにして作品を作り上げているわけで、想
像力を広げる足がかりとして利用しているのであろう。覚書によれ
ば「実際に記録した夢のイメージを素材に、全く別の文章に置き換
えてフィクションとして構成し直したもの」とのこと。
基本的に夢は自分のものだから面白い。
それがどんなに突拍子もないことに見えても、夢は当人にとって
の何らかの真実を含んでいるように思える。どんなに説明ができ
ないような出来事であろうと、当人にはその夢を見た理由があり、
その理由を知りたいと思ったりもする。
そして、それならば、夢を利用して、これまでは自分でも気づか
なかった自分の世界を遠くまで旅してみようと思うわけだ。
内田百閧燒イのような作品を書いたが、その中の一つに「サラ
サーテの盤」がある。
夜になると、死んだ友人の妻が、生前に主人が貸した本がこちら
にきているはずだから返してくれと訪ねてくる。あるいは、サラサ
ーテ自身が演奏したチゴイネルバイゼンのレコード盤がこちらにき
ているはずだから返してくれと訪ねてくる。
物語の輪郭はとらえどころがなく、登場人物の行動もこちらの世
界の理由では説明できないような曖昧なことばかりである。
内田百閧ヘこの小説を書きながら、どこまで遠くに行ってしまっ
たのだろうと思えるのだが、その小説を読んでいる私までもが遠く
まで行ってしまいそうになるのである。これだから夢は面白い。
この小説を映画化したのが鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」
である。
1980年の制作で、清順独特の鮮やかな色彩の画面に原作の小
説以上に夢と現実が交差して描かれる。清順もまた内田の小説
に夢を見たのであろう。そして、そこから自分の夢を発展させたの
だ。
それは例えば、映画「ツィゴイネルワイゼン」の一場面のように、
相手の眼の中に入った小さなごみを、柔らかい舌をさしだして舐
めとるような隠微なことかもしれない。
当然のことながら、相手の夢が終わったところから自分の夢が
始る。新たに作るものは可能な限りの距離を置かなければならな
い。すると、その二つの間に広大な物語が生まれる。
どこまで飛んでいけるか。どこまでも。
「詩と思想」2005年12
月号
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