写真は撮り終えましたか −京都ジョギング−


天気予報は雨だったので心配していたが、夕方の京都駅に着い てみると、幸いなことに曇り空だった。

四条烏丸通りに近いホテルにチェック・インして、すぐにジョギン グ・パンツとTシャツに着替える。
それから、小さな財布に小銭と何かが起きたときのための一万円 札を入れて、パンツのポケットにしまう。
某スポーツメーカーのロゴの入ったキャップと軽量のランニング・ シューズも持参していた。今回の旅の目的のひとつは京都の街を ジョギングすることだった。

若いころは何の運動もしていなかったのだが、四十歳代後半にな ってからジョギングを趣味として始めた。
最初のころは五キロを走るのがやっとだったが、十年近くたった今 は、ゆっくりとだったらフル・マラソンの距離も走れるようになってい た。
そして、いろいろな仕事で出かけた街を、会議の始まる前の早朝 や終わったあとの夕刻にジョギングをするのが密かな楽しみとな っていた。事前に地図を検討してホテルを起点としたジョギング・コ ースを設定するのである。これで十キロぐらいかな、これなら一時 間ぐらいで走れるかな、などと計画を立てて見知らぬ街の風景を 想像するのは楽しいことであった。

旅行先でジョギングをするときに一番恥ずかしいのは、部屋を出 て、ジョギング・スタイルでホテルの館内を歩くときである。
エレベーターで乗り合わせた人は、一様に奇異なものを見るよう な目となる。フロントで部屋の鍵を預けるときも、フロント係はたい てい、あれっ、と言う顔をしながら、いってらっしゃいませ、と言う。 こちらもどんな顔をすればよいのか判らず、なんと答えればよい のかも判らず、口の中でもごもごもとごまかしてしまうのだが、この 瞬間はとても恥ずかしい。
しかし、ホテルの外に出てしまえば気持ちは浮き立つ。それが初 めて走る街なら、なおさらだ。
京都の街を走るのは初めてだった。あの頃は運動なんてものは 何もしないで暮らしていたのだったから。

ホテルからいったん堀川通りに出て、二条城の前を北上して丸太 町まで。そこから東に折れて京都御所の前を走る。
夕刻の人通りがあるが、歩道が広いので走るのにはそれほど困 らない。バス停のあたりでだけは人ごみをぬうようして走りすぎる。
京都の街の人はジョギングをしている人を見てもそれほど奇異な 視線を送ってこない。神戸や横浜など、外人が多い街の人はたい ていそうだ。外人は日常生活の中にジョギングを取り入れている ことが多いので、見慣れているのかもしれない。

足は軽い。
走るコースは大まかに決めてあった。京都の街を走ってみようと 考えたときにコースはすぐに思いついた。かっての日々に住んで いた風景をもう一度訪ねるコースだった。
夕方の湿った風にすぐに汗が噴き出す。
そうだ、京都の夏は蒸し暑かったのだったと、思い出す。

予備校に通っていた時から学生時代、そして社会人としての生活 も始めて、全部で九年間を京都で過ごした。その間に結婚をした、 息子も生まれた、それが京都の街だった。
今も仕事上の会議で年に数回は京都を訪れるのだが、各地から 集まる出席者の便宜を図って、会議はいつも駅前のホテルで行 われる。
新幹線で京都へ出かけ、朝から夕方までの会議を駅前のホテル で済ませ、懇親会を終えてそのまま新幹線で帰宅する、これがい つもの京都旅行だったから、二度目の京都での勤務を終えたあと は、この二十数年間というもの、京都の街中に出ることはなかった のだ。

鴨川にかかった丸太町大橋を渡る。
このあたりは古本屋が並んでいる一帯だったが、今は数軒の店が 残っているだけだった。橋のたもとには洒落たオープン・カフェもで きている。
東大路通りへ出て北へ向かう。通りの左側に建ち並ぶ京大病院 は、外来棟が新しくなっていた。
敷地を囲んでいた高い塀も取り払われて開放的な雰囲気になっ ている。
病院の敷地の一角にある全快地蔵には、患者さんの家族やお見 舞いの人がかけていくのであろう、昔と同じように千羽鶴のレイが 何本も掛けられていた。
医学生らしい白衣姿の若者と何人もすれ違う。頑張っているか い、私はもう年老いたけれどね、心の中で若者たちに話しかけて みる。

東一条通りは学生時代に暮らした下宿があった場所だ。
足を止めて、記憶を探って狭い路地にはいる。今でもあの下宿は 残っているのだろうか。京都特有の狭い路地をもう一度右に曲が る。記憶にある路地の風景が広がる。
その下宿は小さな二階家で、そのころの下宿がどこもそうであった ように玄関は共同だった。
狭い廊下をはさんで四畳半の畳の部屋が並んでいた。
風呂もシャワーもなく、同じ下宿の連中と一緒に近所の銭湯に行 ったものだった。そこで四年あまりを過ごしたのだった。
今の学生はこんな下宿には住まなくなっているのだろうな、息子 が大学に行ったときに借りた部屋にはトイレと一緒になったユニッ トバスが付いていた。簡単な調理ができる台所まで付いていた。
贅沢なものだな、と言うと、今ではこれが普通なんだ、と聞かされ た。お父さんの頃とは時代が違うよ、と。

京都の夏は本当に暑い。じっとしていても汗がにじみ出てくる。
学生のころに借りていたその部屋にはもちろんクーラーなどはな く、扇風機だけだった。
部屋の中にいるだけで暑かった。
だから暇があれば場末の映画館に行っていた。観たい映画があ るからではなく、ただ冷房の効いている暗闇で時間をつぶしてい たのである。
暗い青春だった。時間は有り余るほどあったが、アルバイトをする のも嫌で、わずかな生活資金の範囲内でごろごろと生活してい た。

その下宿は残っていた。
玄関のガラス戸が少し開いており、靴脱ぎ場が散らかり放題にな っているのが見えた。二階に続く狭い急な階段も見えた。
今どき、あんな部屋を借りる学生がいるのだろうかと心配になった が、二階の窓先にはTシャツが何枚も干してあった。
開け放された窓からは、東南アジアの言葉らしい元気のよい会話 が聞こえてくる。そうか、最近は東南アジアからの留学生に部屋を 貸しているのだな、と思う。
カメラを持ってくればよかった、妻や息子にこの下宿の写真を見せ てやれたのに、と少し残念に思う。

百万遍の交差点に面した大学の塀には大きな立て看板がひとつ だけ立てかけられていた。
昔から馴染み深い、立て看板に特有の書体でアメリカや日本のイ ラク派兵に抗議する内容の文句が書かれていた。今でも立て看 板を書いている学生もいるんだ、と驚く。
大学にバリケードが築かれ、機動隊が大学を取り囲んでいるのが 珍しくなかったあのころは、百万遍から東一条を越えて近衛通り のあたりまで立て看板が並んでいた。
いつもハンドマイクからいろいろなセクトのアジテーションが聞こえ ている街だった。そんな街を走り抜けて。

百万遍の交差点から北白川へ。
銀閣寺道へ続くゆるいのぼり坂の左手の進々堂という古い大きな 喫茶店は、今もあった。
クラブ活動を終えたあとに仲間とよく行った店だ。コーヒー一杯で 何時間も粘ってはとりとめもない話で時間をつぶしていた。講義の 合間に本を読みに行ったりしていた。
でも、あのころはゆっくりと時間が流れていたためか、店内の客は 皆そうだったのだ。通りに面した大きな窓からは昔と同じような店 内の様子がうかがえた。
ジョギングの最中は汗びっしょりになっているために、むやみに喫 茶店などに入ることはできない。明日、コーヒーを飲みに来てみよ うかと考える。

北白川の並木道を北へ走る。
ゆるいのぼり坂が続くので足が重くなってくる。次第に陽がかげっ てくる。

鴨川を西へ渡り、河原町今出川の交差点に出る。
数人の仲間と詩の同人誌を発行していたときがあった。交差点か ら少し西に入ったところに、その仲間との会合場所に使っていた 喫茶店があったのだが、全く違う店になっていた。
その同人誌を本屋で読んだ一人の女性が同人に加わりたいとい って連絡をしてきたので、その店で会ったのだった。
そのころの私は肩までの長髪をゴムバンドで止め、喫茶店の中で も大きなサングラスをかけ、薄汚れたジーンズをはいているといっ た風体だった。
その女性が後に告げたところによれば、どんな他の人でもよいけ れど、この人だけは絶対に恋人にはしたくない、と思ったそうだ。 それが私の第一印象だったとのことだったが、なぜか、その女性 が数年のちに私の妻になった。

学生結婚をして、まもなく生まれた息子と三人で暮らした下鴨の小 さな借家は未だ残っていた。
二階家の一階を借りていた。二階には中年を過ぎた未婚の姉妹 が住んでいて、世間のことなど何も知らない私たち夫婦に親切に してくれたものだった。
借家の前には、狭い土地に家が密集している京都には珍しく空き 地があった。
生まれたばかりの息子をそこで遊ばせたのだったが、再び訪れて みると、今の田舎暮らしに慣れた目には驚くほど狭い空き地だっ た。
車も通れないような借家の前の狭い路地は小さな子供にとっては 安全な遊び場所だった。
路地のかどにはお地蔵さんも奉られていた。
生まれたばかりの子供を道行く人に見せびらかせたくて、乳母車 に乗せて下鴨神社へ散歩にも出かけた。若い夫婦にとっては生 まれたばかりの息子は宝物だった。
新聞を取るお金もない貧しい生活だったが、惨めさはこれほども なかった。

二階の住人を示す表札には昔と同じ名前が書いてあったが、訪 ねることはしなかった。
今回の旅はひっそりと昔の風景を訪れる旅だ。
カメラを持ってくればよかった、息子に、幼かった頃のお前と一緒 に暮らした家だといって写真を見せてやれたのに、と少し残念に 思う。

下鴨をあとにして、河原町通りを南へ、南へ。
京都の街は、全体が南に向かってゆるやかな下りになっているの で、十キロ余りを過ぎて疲れが出てきた足でも軽いリズムで走れ る。
ふたたび京都御所の辺りに戻ってきて、今度は御所の中の砂利 を踏みしめて走ってみる。

夕暮れがすすみ、街並みが薄暗くなってくる。
街にも仕事を終えた人の姿が急に増えてきた。
南へ、南へ。私のジョギングの終わりの時間が近づいていた。

  *

翌日の昼食は、百万遍の近くのあの進々堂で食べた。
パンの製造販売をしている店が喫茶店も併設したという店なの で、食事のメニューもパンばかりである。自家製カレーパン・セット を注文した。
昭和五年から営業しているという広い店内には無造作に大きなテ ーブルとベンチのような椅子が並んでいる。
通りと反対側にはガラス戸があり、小さな裏庭に出られるようにな っている。
客の大半は、今も学生風の若い人たちばかりであった。コーヒー を飲み終わった後も黙々と文庫本を読んでいる若い女性もいる。 ゆっくりとした午後の時間が流れていく。

ふと息子のことを思う。
生まれて数年を下鴨の小さな借家で過ごし、二度目の京都では 幼稚園から小学校の六年まで通った。
そんな息子にとって京都はどんな街だったのだろう。私の転勤にと もなって中国地方に転居して、息子はそのままそこで大学生活も 送った。社会人となり、今は私と同じ会社で働いている。
たまに会社の廊下で出会うと、おお、と軽く合図をしてすれ違う。 社員食堂で一緒になったときにはお互いの部署の近況を語り合っ たりする。
そんな息子にとって懐かしい街はどこになるのだろうか。
京都の借家の前の狭い通りで、糸をつけただけの折り紙を凧にみ たてて走り廻ったり、十円硬貨を車のハンドルにみたてて運転の 真似をしていた幼いころの息子を思い浮かべる。

観光客に向けてであろうか、歴史を感じさせる天井の高い進々堂 の店内は撮影禁止になっていた。他の客の迷惑になるからなの だろうな、と考える。
写真で撮れるものなんて、所詮は通り過ぎる人にとってのものだ けだ。
その風景に住んでいる人にとっては、写真に写しきれないものが たくさんあるのだ。
昔の風景を訪ねてジョギングで走りぬけた京都の街であったが、 そこが懐かしいのは、そこに住んでいた私が待っていたからだっ た。
そんな時間に出会った私には、かって暮らした下宿や借家の写真 を撮る必要はもうどこにもなかった。



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