エッセイ
早熟な友人の影響で、中学生のころからジャズを聞いていた。
乏しい小遣いでレコードを集めたりもしていた。
社会人になり金銭的な余裕ができてくると、機会があればジャズ
のライブ(生演奏)も聞きに行くようになった。レコードやCDで聞く
のとは違ったライブ独特の臨場感は魅力的であった。あまり有名
でない演奏家のライブはジャズ喫茶店や小さなジャズ・クラブのよ
うなところで行われたりもするが、一流とされるような演奏家の場
合は大きなコンサート・ホールで行われることが多い。
ライブは好きなのだが、大きなホールでの場合は演奏者との間
にかなりの距離があり、ジャズの臨場感が薄れることが不満だっ
た。
数年前のこと、大西順子が倉敷の小さなジャズ喫茶店でライブ
をやるという話を聞いた。本当だろうかと、半信半疑で前売り券を
購入した。
それまで彼女の演奏はアルバムでも聞いたことがなかったが、
その名前は「世界の大西順子」ということでジャズの専門雑誌にも
しばしば取りあげられていたために、よく知っていたのだ。
旧い街道にあるそのジャズ喫茶店は、いつもは週末に地元のジ
ャズバンドが演奏しているような店で、数人の客がお酒を飲みな
がらそんな演奏を聞いているという、いつも閑散とした雰囲気であ
った。ハウス・ピアニストは市内のピアノ教室の先生で、週末にな
るとジャズを弾きに現れていた。四十歳前ぐらいだろうか、なかな
か繊細な演奏をやるなと、その人のピアノをときどき聞きに行って
いたのである。
大西順子のライブの日はあいにくと夕方までかかる仕事が入っ
てしまい、それを済ませてやっとのことで店に着いたのは開演ぎり
ぎりの時間だった。
狭い店内はすでに聴衆でいっぱいになっていた。全部のテーブ
ルを取り払い、あらゆる種類の椅子を隙間なく並べているといった
有様だった。この店にこんなに客が入ったことはこれまでなかった
だろうし、これからもないのではないかと思えるほどであった。
どこへ座ろうかと思案していると、顔なじみの店のマスターが、補
助席でよければあそこが空いているよ、と教えてくれたのは、なん
とピアノから数メートルのところの真ん前の席であった。ただし、背
もたれもないような木の丸椅子である。もちろん、喜んでそこに席
を占めた。
缶ビールを飲みながら待っていると、大西順子が現れた。思って
いたよりも痩せた小柄な女性だった。
初めて聞いた彼女のピアノはなんという力強さであったことか。
一曲目がなんという曲かも知らなかったが、聞き始めたとたん
に、それこそ身体が震えてきたのだった。週末に聞いているハウ
ス・ピアニストの音とは全く違うことにも驚いた。本当に同じピアノ
から出ている音だろうかと、訝しくなるほどであった。そしてその力
を支えるリズム。この音を出すためにはこの速さでなければならな
いという、必然の速さが選ばれていると思えた。
主旋律を弾き終わり、アドリブ(即興演奏)の部分に入る。
フレーズを捜すようなわずかな逡巡ののちに、奔流のように繰り
広げられるメロディ・ライン。それは、これまで聞いたどのライブで
の演奏よりも内側から溢れてくる激しさを感じさせてくれるものだっ
た。
そして、彼女のピアノはなによりも凄絶な美しさをたたえていた。
大西順子は京都の高校を卒業後に渡米し、バークリー音楽院で
ジャズを学んでいる。トップの成績で同校を卒業し、そのままアメリ
カに残った彼女は有名バンドのピアニストをつとめたりした。
そして1993年のデビュー・アルバム「WOW」でいきなりスイング
ジャーナル誌の日本ジャズ大賞をとり、一躍脚光を浴びた。25歳
のときである。
それからも出すアルバムで次々に賞をとり、1995年には、映画
で言えば日本アカデミー大賞にあたるようなもので、「今年のジャ
ズ演奏家」「今年のジャズ・アルバム」「小楽団」「ピアノ」の四部門
で大賞を受賞した。これは、デビューしてわずか数年のジャズ・プ
レーヤーには考えられないような快挙であった。
その年以後4年間にわたり彼女は「今年のジャズ演奏家」「ピア
ノ」の首座を占め続け、四部門大賞受賞ももう一度している。
活動の拠点はアメリカで、日本人で初めて自分のトリオを率いて
ニューヨークの名門ジャズクラブ「ビレッジ・バンガード」に1週間の
公演を行なったりもした。
日本へはときおり里帰り公演に戻っていただけであり、そんな大
西順子が倉敷の小さなジャズ喫茶店でライブを行なったのは、信
じがたいようなことだったわけである。
あの夜の、大西順子の数メートル先のライブを聞いてから、私の
ジャズ観は変わった。すごいジャズをやる人は本当にいるのだ、と
言うことを改めて実感したのである。
もちろん、大西順子のアルバムはほとんどを買い集めた。その
どれもが満足のいくものだった。そして、あの店での週末のジャズ
バンドの演奏は聞きにいかなくなってしまった。
それからしばらくして、大西順子の名前はふいに一線から全く消
えてしまった。
アメリカで結婚して、ジャズの世界からは完全に引退したとのこ
とだった。その報に接した幾多のファンは、一様に、何故、大西順
子ほどの才能の人が引退してしまうのか、と惜しんだ。もう一度活
動を再開して欲しいという声は今でも続いている。
しかし、私は、彼女はもう二度とジャズを弾かないような気がして
いる。
それほどあの夜の彼女の音楽は凄絶だった。あんな我が身を削
り取るようなすごい演奏を、いつまでも続けられるはずがない、と
思ってしまうのである。
10年足らずの短い活動期間に、大西順子は我が国のジャズ演
奏家としての栄光のほとんどを手に入れた。そして、あっと言う間
に表舞台から消えていった。
その間に、彼女はわずかに8枚のリーダー・アルバムと数枚の共
演アルバムを残した。今では、それらが私にとっての大西順子の
すべてになってしまったのである。
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