エッセイ
リディア・ディヴィスの短編集「ほとんど記憶のない女」(2005年、
白水社刊)には、とりとめのない話が、脈絡もなく集められている。
たとえば、火事で焼死した伯母の交際相手を探して何週間も街
中を彷徨う話や(交際相手に巡り会ったのは、彼が男たちに囲ま
れてなぶり殺しにされるところだった)、ロイストン卿と名乗る人物
がロシアを旅する話(最後に船が転覆して、卿は海中に消えてい
く)などである。
そんな物語としてとても面白い短編があるのだが、さらに面白い
のは、物語を振り捨てた半頁ほどの長さの作品の数々である。と
ても短い作品「下の階から」を次に紹介する。
「下の階から」リディア・ディヴィス
もし私が私でなく下の階の住人で、私と彼が話している声を下か
ら聞いたなら、きっとこう思うことだろう、ああ私が彼女でなくてよか
った、彼女みたいな話し方で、彼女みたいな声で、彼女みたいな
意見を言うなんて。だが私は私の話しているところを下の階の住
人になって下から聞くことはできないから、私がどんなにひどい話
し方なのか聞くことはできないし、彼女でなくてよかったと喜ぶこと
もできない。そのかわり私がその彼女なのだから、彼女の声を下
から聞くことができず、彼女でなくてよかったと喜ぶことのできない
この上の部屋にいることを、私は悲しんでいない。
さて、これが散文詩ではなくて小説だと、誰が規定するのだろう
か。この作品を詩だと言って差し出された時にそれを否定する根
拠はどこのあるのだろうか。いや、その前に、詩であることを否定
する必要があるのだろうか。
小説を書くように詩を書くことは可能だろうか、と考えてみたりも
する。そんな区別をする意味はないと思ってみたり、詩は理念とし
て詩であるべきだと思ってみたり、とりとめもなく考えてみたりす
る。
誤解を怖れずに言えば、俳句や短歌には形があるが、詩には
形がない。言ってみれば、一番いい加減な短詩型である。
形がないだけに、差し出されているものが詩であるのか否かは、
見ただけではわからない。読んだらわかるべきなのだろうが、読ん
でもわからないことが少なからずある。
詩だと差し出されたものが”日記”であったり、”論文”であった
り、”解説”であったりする(と、私が思ったりする)。
そのうちに基本的なこともよくわからなくなってくる。詩であるた
めには、書かれる内容が詩であるべきなのか、それとも書かれる
方法が詩であるべきなのか・・・。
バリー・ユアグローの短編集「一人の男が飛行機から飛び降り
る」(1996年、新潮社)からも短い作品を紹介してみる。
「骨」バリー・ユアグロー
眠れない。枕の感触が変だ。開けてみると、なかに骨がいっぱ
い入っている。白い骨で、何か小動物のものと見える。
私はいつの間にか夜道を、骨を入れた白い袋を抱えて歩いてい
る。月が垣根の手前に、水たまりのような暗い影をいくつも投げ
る。そのひとつの影のかたわらに、女の子が一人座っている。白
いガウンを着て、黒い瞳は華奢な顔に似合わずひどく大きい。彼
女の人生のなかには、何かとり返しのつかない悲しみがひそんで
いるように思えてならない。私は彼女と並んで芝生に腰をおろし、
静かな思いやりをこめて神妙に目を伏せる。彼女は私に片手を見
せる。指が二本なくなっている。私は自分と彼女のあいだに袋を
置く。ゆっくりと、力なく、私たちはその華奢な、ちりんと音を立てる
獲物をすくい上げる。
そもそも、書かれる内容で詩か否かが決まるということがあり得
るだろうか。それにもまして、詩を書く方法などというものが存在す
るのだろうか。
どうやって成立したものの中に詩はあるのだろうか。
安易に安心しようとするには、何の中にも詩があるのだと開き直
ればいいような気もする。詩は、日記の中にも論文の中にも解説
や説明の中にもある、と開き直れば、すべての問題は解決するよ
うに思える。
すると、作者が日記だと思って書いたものの中に読者が詩を読
み取ることもあり、逆に、作者が詩だと思って書いたものの中に読
者は日記しか読み取らないこともあるわけだ。
詩的な小説とか、詩情あふれる映画とかいう宣伝文句もよく目
にする。宣伝文句は別にして、では何があれば”詩的”だと感じる
のだろうか。
人によっては、リズムあるいは音楽が感じられることが詩である
ことの最低条件だ、というかも知れない。また、詩であるからには
イメージあるいは絵画を想起させてほしいという意見もあるだろ
う。
小説などの散文でもリズムやイメージを感じさせる作品は数多く
ある。というよりも、良質の散文はそのようなものも必ず伝えてく
る。散文の場合は、それらを言葉の意味をとおして伝えてくる。意
味によって構築されたものとして伝えてくる。
それに比して、詩におけるリズムやイメージは言葉の意味を超え
たところで伝えられてくる。
言い換えれば、詩はあくまでも言葉で書かれるのだが、その言
葉が意味しか伝えてこないとすれば、それはもはや詩ではないだ
ろう。言葉が、言葉として伝える意味以上の何かを孕んでいるの
が詩であるだろう。
最後に、福間健二がツイート詩として「詩論へ 5」(首都大学東
京 現代詩センター、2013.2)に発表している作品の一つを紹介し
ておく。
「本物の恋、プレイバック1」福間健二
きみはわざと汚い字を書いて、教室の視線を刺され、ひとりで通
った。花のデパートの、夢。でも、目ざめた左手に可憐な黄色い花
をつけた枝。その花の名を知らない。そしてぼくのリズムを理解し
ていない。きみはまだ。きみのいちばん複雑な部分はまだ。
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