エッセイ

物語が終わり、そして / 瀬崎 祐

 学生の頃は、他にすることもなかったので、よく映画を見た。手 当たり次第に年間に百本以上は見ていただろうか。
 その頃の映画は封切館でも二本立て上映、名画座では三本立 て上映が普通だったから、一度映画館にはいると半日ぐらいを暗 闇の中で過ごしていた。
 映画が終わり、物語の世界からまたこちらの世界に戻ってくる。
 映画館から出るときは、少なからず不安を感じるのが常だった。 自分が映画の世界に行っている間に、外の世界は全く違ってしま っているのではないか、たとえば、宇宙人が侵略してきているので はないか、核戦争が勃発して世界が終焉しているのではない か・・・。もちろん、そんなことは一度も起こらなかったけれども、向 こうの世界から戻ってくるには、それぐらいの気持ちの切り替えが 必要だった。

 それにしても、と、映画が終わったあとの物語のことを考える。
 映画が主人公の物語であるからには、主人公の物語が終わる ときには映画も終わり、主人公はそれなりの結末を得て舞台から 消えていく。では、主人公の物語が終わったあと、取り残された脇 役たちはどうなるのだろう。
 自分だけの都合で勝手に物語を終えてしまうのは、アクション映 画の主人公に多い。正義の味方である主人公は、周囲の人々に 多くの迷惑をかけながら自分の物語を終える。たとえば、建物は 壊すわ、高速道路で事故を多発させるわ、そして、大勢の脇役の 犠牲のうえに敵を倒す。
 まあ、これは極端な例だけれど、脇役のことなど忘れてしまっ て、主人公だけの物語が終わることが少なくない。

 アメリカン・ニューシネマという言葉が流行った頃に、「バニシン グ・ポイント」という、車が爆走する映画があった。筋立ては単純 で、陸送屋の主人公が期限の日時までに車を届ける仕事を引き 受けるというもの。
 設定はシカゴからデンバーまでを十五時間でだったか、地図で 確認したわけでもないので、それがどのくらい困難なことなのかは 解らないが、とにかく、期限を守るためには制限を遥かに越えたス ピードで走らなければならないわけだ。当然のことながら、違反を している車を制止しようと警察が動き出す。

 始めは単なる暴走行為だったのだが、そんな主人公の行為を反 権力的な行為ととらえたマスコミがラジオで取り上げ始め、主人公 も次第に英雄気分になってくる。面子を保とうとする警察は、暴走 車を止めようとして検問所を作ったり道路封鎖を行なったりする。
 些細なことから始ったことだったが、行為の持つ意味が勝手に大 きくなってしまい、主人公は次第に破滅に向かわざるを得なくなっ てくる。

 途中で警察の追っ手からのがれるために砂漠の中に主人公が 逃げ込む場面がある。
 そこで主人公は一人暮らしの蛇取りの老人に出会う。主人公に 死んだ息子の面影を見出した老人は、理由も聞かずに主人公を 逃がすための手伝いをする。間一髪で警察から逃れた主人公の 車を蛇取りの老人は見送る。

 結局、主人公は警察が道路上に並べたブルトーザーにブレーキ をかけることもなく突っ込んで行き、爆死を遂げる。こうして主人公 の物語りは終わる、何も残らず、それ以上は続かない。しかし、 と、映画を見終わった僕は考えてしまう。あの蛇取りの老人はあ のあとどうしたのだろうと。
 老人のことを考えると、僕は少し悲しくなる。
 誰にも話しかけられる事もなく砂漠で一人で暮らしていた老人に とって、息子の面影を残した若者を助けることに何の理由も要らな かったのだろう。そして、主人公が死んでしまった後も、老人は一 人で砂漠の中で暮らしていくのだろう。
 そう考えると、どんな脇役であっても、彼を主人公にした物語が あり得ることに、今さらながらに気づく。

                                     「ERA」 創刊号より





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