エッセイ

文芸時評 ・ 作品の背後にあるもの


 第十回中原中也賞には三角みづ紀氏の「オウバアキル」が選出 され、先日、その表彰式が行われたとのことである。その「オウバ アキル」に収められた作品を読む。悲痛な叫びが聞こえてくるよう な詩編が並んでいる。
 三角みづ紀氏が全身性エリテマトーデスという膠原病に罹患し ているということは様々な場面で言及されている。そして、彼女の 作品の特異な重さ、暗さを、作者がこの疾患に罹患していることと 結びつけて読みとる解説も目にする。
 この詩集の作品には死のイメージが満ちあふれているが、詩集 のタイトルに「過剰殺戮」という意味を含ませているとすれば、彼 女自身もその辺りのことは承知の上なのであろう。

 さて、私はここで三角みづ紀氏の作品について論じようとしてい るのではない。
 彼女が難病に罹患しているという背景を読者が知ることが(も し、それが事実だったとして)どんな意味を持つか、と言うことを考 えてみたいのだ。

 作品の解説が作品の理解を深める、と言うことは確かにあるだ ろう。
 たとえば、音楽の話になるが、有名なビバルディの「四季」の 「冬」第三楽章で、凍った道を滑らないように注意深く歩いている 情景ですと解説されている部分がある。その解説を聞くまでは、お そらく私にはそのイメージは浮かばなかったであろう。しかし、中学 生のころだったか、一度この解説を聞いてしまってからは、音楽が この部分にさしかかると冬の寒い朝の情景が浮かぶのである。す でにそれは作品の一部となっているかのようなイメージなのだ。

 このように、解説によって知り得た知識が作品を鑑賞する側に 何らかの影響を与えることはあり得る。
 ただ、解説は、あくまでもある事柄に対する個人の一つの解釈で あるから、ある作品の作者の現実世界でのことを知るのとは、意 味がやや異なってくる。

 しかし、それにしても、はたして、作品を読むうえで作者の背景を 知ることは必要であろうか。背景を知る前と知った後では、その読 者にとっての意味が違って来るであろうか。
 すなわち、これは、作者に関する知識は作品に付加価値をもた らす意味を持ち得るのか、と言う問題になってくる。
 ここで、いや、作品はそれだけで成り立っているものであり、全く 無関係だ、と言う答えは正当であろう。しかし、背景を知ることで作 品により親しみを覚える、と言うことも確かにある。

 一概に結論が出る問題ではない。
 確かなことは、三角みづ紀氏の作品は、すでに彼女から離れて 私の目の前にある、ということである。
 私が彼女の背景を知っていようが知っていまいが、そんなことは 彼女には関係のないことである。当然のことだが、読者が作者の 背景を知ることは、作者には関係のないことだ。同様に、作品その ものにも関係のないことだ。読者だけに関係する勝手な事柄であ る。

 さて、私はすべての背景を消して読むことができるだろうか。
 つまり、私は、三角みづ紀氏の作品を、作者名のない状態で読 むことができるのだろうか?

                        「詩と思想」誌 2005年8月





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