エッセイ

30年ぶりに唐十郎の芝居を見たこと / 瀬崎 祐

  東京での所用が終わった土曜日の午後、早稲田から都電荒川 線に乗って鬼子母神へ出かけてみた。
 大きな欅並木が続く参道をスケッチしてみたいという目的であっ たが、残念ながらあまり好い構図が得られなかった。仕方なく骨 董市をしている境内をぶらぶらしていると、その片隅に、かっての 日々に見覚えのある大きな古ぼけた赤テントが建っているのを見 つけた。
 まさか、と思いながら近づいてみると、やはり、<あの状況劇場 >の赤テントであった。まだ続けていたんだ、という懐かしさと期待 とで、早速その夜の公演のチケットを購入した。

     *

 唐十郎が主催する状況劇場は、大学紛争が華やかだった時代 に現れた多数の前衛劇団の一つで、寺山修司の主催する天井桟 敷と人気を二分していた。
 他の劇団とは異なり、状況劇場は常設小屋を持たず、大きな赤 テントをトラックに積み込み全国を回っていた。当時大学生だった 私は、機会を見ては、新宿・花園神社や、京都・下鴨神社、京大 西部講堂前広場などでの公演に駆けつけていた。演目はもちろ ん唐十郎の書き下ろしで、「ジョン・シルバー」「腰巻きお仙」「少女 仮面」「吸血姫」などなど・・・。

 主演俳優も李礼仙(元・唐十郎夫人、俳優の大鶴義丹の母親)、 人形作りの四谷シモンから根津甚八、小林薫と変わっていった。T Vに引き抜かれた根津甚八が退団し、その後がまが「新人、小林 薫っ!」と紹介され、少しはにかんだような初々しい青年がスポッ トライトをあびたときのことは、今でも良く覚えている。

 長いバリケード闘争の時代が過ぎ、大学が再開されると、次第 に芝居を見に行く暇もなくなり、状況劇場のことはすっかり忘れて いき、それからいつしか30年近い日々が経っていた(唐十郎が「佐 川君からの手紙」で芥川賞を取ったのはかなり後、1983年のこと である)。

     *

 その日の夕刻、鬼子母神の境内には意外なほど大勢の若い人 たちが集まってきた。彼らに混じって、テントへの入場が始まるま での間の妙に高揚した気分を久しぶりに味わっていた。
 その夜の芝居「鯨リチャード」は、30年前に最後に見た状況劇場 の芝居の雰囲気をそのまま残すものだった。新宿の路地裏で鯨カ ツを揚げているせむしのリチャード三世を狂言回しにして、迷路の ように入り組んだ会話、流れ星のシールを貼った厚底サンダルな どの奇妙な細部にこだわる登場人物たち、そして突拍子もなく飛 躍する物語など。

 それらを、降り始めた初冬の雨の音が伝わってくる赤テントの中 で堪能した。
 私が社会人となり、結婚し、子供たちが産まれ、その子供たちが 社会人となり、そんな年月の間、唐十郎はずっと迷路のような芝 居の世界を彷徨い続けていたのだ、と言うことにある種の感慨を 抱きながら。





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