エッセイ

文芸時評 ・ 朗読される詩というもの


 先日、福間健二氏の自作詩朗読を聞く機会があった。
 福間氏の朗読は自然でいながら抑制された激しさが感じられ て、それは詩の朗読というものの新しい魅力を発見した経験であ った。

 詩は、裏側になにか別のものを隠しているにせよ、少なくとも表 面上は何らかの意味を伝達する運命、宿命をになっている。これ は詩が、伝達の道具である言葉を素材としているために、否応な くつきまとわれる宿命である。
 その言葉によって伝達される意味の伝わり方は、読む場合と聞 く場合で異なってくる。
 詩について言えば、目で読む場合は、言葉は文字という形として 存在しており、たとえば行換えや漢字とひらがな、カタカナの表記 などが見た目の要素となってくる。それに比して、朗読で聞く場合 は、その言葉の伝達に関与する要素として声の調子や、朗読者 の身振りなどがある。
 それに加えて、朗読の場合の大きな要素として時間軸の問題が ある。

 詩を朗読で聞く場合、言葉は時間に沿って流れすぎていく。言葉 の区切り方、間の取り方、その早さすらも朗読者の提示したものと なり、二度と戻ることはない。
 それにひきかえ、目で読む場合は、読者が好きなように読む位 置を定めることができる。望みさえすれば最後から逆さに読むこと だって可能だ。

 たとえば絵画と音楽を比べてみる。
 具象であれ、抽象であれ、絵画は色彩も含めた形をともなったも のとして提示され、鑑賞する際には時間的な制約はない。一つの 作品の前を一分で通り過ぎようと、一時間佇んでいようと、鑑賞者 の自由である。
 一方、音楽の鑑賞の態度は基本的に受動的で一回性のもので ある。音楽は時間軸に沿って展開される音によって提示され、 次々に消えていく。

 音楽の場合と同じように、朗読される詩の魅力はその一回性に ある。
 ジャズのアドリブ演奏がその晩一回限りのものであるのと同じよ うに、同じ朗読は二度とない。だから、印刷された作品を目で追い ながら朗読を聴く、というような愚は犯さないほうが良いであろう。

 朗読を聞くという行為は受動的である。
 それはすなわち、朗読する者がそれだけ作品の提示に関して能 動的になれると言うことに他ならない。もちろん、聞いた言葉と鑑 賞者の間のインターアクションが不可欠であることは言うまでもな いが、文字で作品を提示する場合に比して、朗読の場合は提示 者の思惑が伝達の内容にまで影響を及ぼす。
 そのような意味では、朗読される作品の方が、文字で提示される 作品に比して、より作者に近いところに位置していると言える気が する。

 このように、目で文字を読む場合と、耳で声を聞く場合では、言 葉が伝えようとするものは異なっているであろう。
 とすれば、同じ詩を目で読んだ場合と朗読で聞いた場合、それ は果たして同じ詩と言えるのだろうか。
 異なる手段で言葉が伝えられた場合、それは異なる価値を持つ ものに変容しており、すでに全く異なる作品であるとはいえないだ ろうか。
                         「詩と思想」誌 2005年9月





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