エッセイ
もう一か月前の話になるが、国際サッカー大会のTV中継を毎夜
していた。
ドイツでの大会だったので中継は夜の十一時とか深夜だった。熱
心なファン
でも翌日の仕事を考えれば中継をそのまま見るのはかなり難し
い。すると録
画ということになるのだが、翌朝には試合の結果が報じられてい
る。結果を知
ってしまった試合の録画を、それでも見る?
さて、私はマラソン中継のファンである。仕事の関係で中継をそ
のまま見る
ことができないときは、翌日の楽しみのために録画をする。翌朝の
新聞もスポ
ーツ面は読まないようにする。しかし最近は、何気なくインターネッ
トの画面を
開くと、トップ画面で結果が目に入ってしまう。これは困るよなあ。
十年以上前の話になるが、マラソン中継の途中まで仕事の都合
で見ることが
できなかったことがあった。当時はTV録画はテープだったので、
録画が終わる
までは番組を始めから観るということはできなかった。そこで、マラ
ソンが終わ
るまでは散髪にでも行って時間をつぶしてこよう、帰宅したらテー
プを巻き戻し
て始めから見よう、と近くの理髪店へ出かけた。店に入った途端
に聞こえてき
たのは、**選手がトップでゴールしましたっ!というTV番組の
声だった。
えっ?
さて、結果を知ってしまった物事の経過を楽しむことはできるだ
ろうか。一生
懸命なことだったら、経過も楽しめるのではないだろうかと考える。
人はみんな
結果だけで生きているのではない。経過として生きている面があ
る。努力や悲
嘆や悦びなど、結果をもたらす経過は、やはり必要とされるのだと
思う。
(山陽新聞 エッセ
イ「一日一題」)
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